日別アーカイブ: 2017年8月22日

かわら版(新執行部でがんばります!)2017‐6号(2017/08/22)が発行されました

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 新執行委員長 ごあいさつ

          2017 年度 執行委員長 佐々木 弾(社研教授)

労働組合の果たすべき機能は2つに大別できます。以下これらを「内的」「外的」と称することにします。
前者は言うまでもなく組合員の労働環境と生活の向上・安定にあります。経済学的に言えば(小生は社会科学研究所所属)、組合員の「効用」の最大化・最適化を目指す、というのが組合の「内的」機能です。これは単に個々の勤労者の賃上げ等を目するのみならず、職場全体における公平・公正性の担保、更には社会全般における自由と平和の希求、を当然に含みます。組合員の効用は、俸給など直接的な雇用条件への不満のみならず、職場内における不公平感や、社会全般に漂う非民主的・非平和的な風潮によっても、甚だしく毀損されるからです。

雇用のいわゆる非正規化が社会問題化して久しく、本学も決して例外ではありません。過去数回の団体交渉から明らかになったのは、本部要員たちから非正規教職員に対して向けられた露骨かつ抜きがたい差別感情であり、職務上の客観的・合理的必要性を欠く謂わば前近代身分制的な差別待遇の実態です。就中、非正規教職員の多くが家庭責任を負っていることに対する本部労務担当者たちの徹底的な無理解と、人として当然払うべき敬意の欠缺(けんけつ)とは、目に余るを通り越し、峻烈な敵意さえ覚えます。我々東職は、世の多くの既存大手労組が「既得権正社員クラブ」化し、非正規化の潮流の中で自動的退潮に追い込まれた轍を踏まぬよう、この非正規差別問題を目下の重点闘争と位置付ける所存です。

社会的な方面では、幸い五神総長以下、本学当局は、近年頓(とみ)に急拡大するいわゆる軍学共同に対しては厳禁主義を堅持しており、東職としてこれを全面的に支持・賛同しない手はありません。更には文教予算緊縮や学校教育法改悪などに代表される高等教育・学術研究への国家権力の招かれざる介入や、より広くは特定機密・戦争法・共謀罪・改憲などの不穏な動きに関しても、無責任な「見ぬ・聞かぬふり」をせず、毅然たる意思表示を続けることが我々東職にとって必須な責務の一環と心得るものです。
他方、東職の「外的」機能とは何ぞや。それは端的に言えば、同業他労組、更には異業種労組、ひいては社会全体に対しても、模範的な所謂「ロールモデル」を呈示することではないでしょうか。我々の日々の想像以上に、学外の同志たちは東職を模範と仰ぎ、東職との連帯・共闘・情報共有などを希求されている、という至高の環境に我々は恵まれているのです。そのことへの感謝を形にすべく、倍旧の対外的連携・情報発信などいわゆる社会的責任を積極的に果たして参りたいと考える次第です。

~~ こんなの知ってる?~~ Vol.1
德川光圀の師、朱舜水(しゅ・しゅんすい)
芥川龍之介も建碑式に立ち会った「朱舜水先生終焉之地」碑

工学部から本郷キャンパスと弥生キャンパスを繋ぐ陸橋を渡ると、農学部1号館東側の空地に「朱舜水先生終焉之地」と刻まれた碑があります。ハチ公の銅像建立に伴い、今年2月に農学部正門横から移転しました。

朱舜水像(水戸市内)

「朱舜水」は、中国浙江省余姚市出身の明の学者です。清朝に滅ぼされた明の復明運動が実現せず長崎に留まっていたところ、水戸藩2代藩主 德川光圀により水戸藩へ招聘され、寛文8(1668)年から水戸藩駒込邸(中屋敷 弥生キャンパス、浅野キャンパス、本郷キャンパスの一角と弥生二丁目の住宅地)内の屋敷に住みました。光圀は明暦3(1657)年、後に彰考館となる史館を駒込邸に開設、歴史編纂事業を開始します。朱舜水招聘後、学者数は増加し、彼は儒学、史料編纂などの学問、礼法、農業、土木技術など実学を伝えます。加賀藩5代藩主 前田綱紀は源(五十川)剛伯を朱舜水のもとに派遣。朱舜水は同藩の木下順庵や他藩の学者との交流もあり、内外の学者の集まった駒込邸は学門と教育の場となります。史館は寛文12(1672)年に小石川邸(上屋敷)に移転します。朱舜水は天和2(1682)年、駒込邸内で亡くなり水戸德川家の墓所のある瑞龍山へ葬られ、祠堂が建設され慰霊祭が毎年行われます。元禄16(1703)年の火災で祠堂は焼失、水戸へ移転します。

朱舜水終焉の地(東大弥生キャンパス内)

日中関係が悪化していた明治45(1912)年、駒込邸跡地の第一高等学校で朱舜水を顕彰した「朱舜水先生二百五十年紀年会」が朱家、德川宗家、水戸德川家、尾張德川家、加賀前田家、渋沢栄一、後藤新平他、第一高等学校生徒が参列して行われ、この「朱舜水先生終焉之地」碑が建立されます。この中に芥川龍之介がおり、『歯車』で建碑式について描いています。碑は5回の移転を経て現在の駒込邸跡地に設置されました。農学部正門の横が駒込邸内でなかったことも今回の移転の理由の一つでした。広場に敷かれている石材は茨城県の花崗岩(稲田石)で都電の敷石に使用されており、茨城県ゆかりのこの石材も利用して碑の周辺整備が予定されています。整備の後は、この地の歴史を知ることができる人々の憩いの場となることを期待します。(原 祐一/埋蔵文化財調査室)
写真(いずれも著者撮影)